2012年01月20日

努力できることも才能なのか

「何かに向けて努力する」
ということもまた才能の一種だとするのであれば、
「努力」すらできない人の気持ちを理解するには
どうしたらいいのだろうか。

努力できることも才能なのか



なーんて、らしくないことを言っております。
が、この水掛け論みたいなことで、
ケンカのようになったことを思い出しまして。

はじめは
「できない人の気持ち」
「いじめられている人の気持ち」
を理解しよう、ということで話あっていました。

その中で、どうしたら「いじめ」がなくなるのか、
ということで、実例を踏まえて話をしているうちに、
「いじめられたことがある人は
どうやって克服したのか」
ということがテーマになり、話をしたのですが。。。

それに対しての反論が、はじめの言葉でした。

何かを克服したり、成長したりする際には、
なにがしかの「行動」は必要であって。

でも、「できない」で「苦しんでいる」人にとっては、
その「行動」を起こすことができないからこそ苦しいのであって、

「改善」した人や、「努力」した人は、
「所詮は努力することも含めてできる人間だから」

私たちのように、それすらできない人間の気持ちを
理解することはできない。

そう言い切られてしまい、
それに対しては、もうなんにも言えなくなった自分がいました。

でも、本当に
「努力」って「才能」なんですかね?
だとすれば、どんな才能よりも最幸の才能が
「努力」なんじゃないかと思うんです。

だって、それさえあればなんでも変えることができるんだから。

逆に、どんな才能があるとしても、
「努力」の才能がなかったら、そのあとはないわけで。


・・・その人たちが苦しみながら、嘆きながら言う
「才能」とはいったいなんなのだろうか。

何が手に入れば、「しあわせ」になれるのだろうか。


まあ、考えてみたら、自分も苦しんでいる時には、
「人がうらやましく見えた」し、
「どうせ才能あるからいいよな」ということも
過去には言ったこともある。

けど、それは一時的なものでしかなかった。
それが永遠に続くと思うと、
たしかに気が変になるくらいの苦しみだと思う。

そうした人たちの苦しみを理解することって、
どうしたらいいのだろうか。


。。。それを、理論的に解決しようとすると、
おそらく答えは出ないのだと思う。

感覚的には、「愛」を持って、
そんな彼らを責めず、変わるまで待つ姿勢があれば、
いつか本人たちの中で変わっていくのだろうけども・・・

いまの世の中、「変わるまで待つ」という心の余裕を
持つことが難しくなっているように感じる。

だからこそ、こうしてどこかにぶつけざるを得ないのだろうけど・・・


そんなことを、ふと過去の自分のことと合わせて
思い出してみました。


いままでの自分なら、理論的になんとか解決しようとして、
またもや相手に押し付けていただろうけども、
「答えは出さなくていいよ」という余裕をもって
対応できるようになったのが、ここ最近の変化だと、そう感じています。


まあ、そういうことなんだろうね。



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Posted by くみちょう at 16:00│Comments(0)まじめ
 
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