2013年03月06日

【努力は本当に才能なのか】

【努力は本当に才能なのか】

こんにちわ♪
くみちょう@「努力を才能と言われると悔しい」です

なぜって?
過去にこんなやりとりがあったから

とある友人(以下友)「いいよなお前は 才能があって」

私「おれも昔そう思ってたよ。
でも才能じゃないよ。 毎日3時間練習し続けて
4年経ってようやくそれなりになったってだけだよ」

友「たった4年でうまくなったならそれは才能があるんだよ。
どんなに練習したってうまくならない人が
どれだけいると思ってるんだ!?」

私「いや・・・ホント才能ないし
昔からバカにされてきたからさ・・・
悔しいからうまくなってやると思って
ホント毎日がんばったからこそ・・・」

友「ふざけるな!!!それがおかしいって言ってるんだ!!
努力できることも才能なんだよ!!
結局お前の言葉はできる人の言葉なんだ!!
お前みたいなのが教育語ってるんじゃねー!!!」

・・・それ以降その友達とは疎遠になってしまいました

【努力は本当に才能なのか】



実際私は「努力も才能」と言われてしまうと
「じゃあ自分がこれまでやってきたことはなんだったのか?」
「がんばってきた」と思ったことはすべて「才能」の一言で
かたづけられたら・・・

「すべては生まれてきた時に決まっている」
そんなふうに言われてしまったら生きている意味が
どこにあるんだろうか?

と思ってしまったからです


というのが私の過去にありまして
いまでもぽちぽち言われることでもあります
正直悔しいというかイラっとくることもあるのですが・・・

でも最近ちょっとずつ思うのは
【努力は才能】って言葉は事実ではないかということ

まさにこの友達が怒った通り
【うまくいっていること】というのは
すべからく【人のおかげ】【みんなのおかげ】
【天の神様が授けてくれたもの】なんですよね

そこに感謝すべきであって
できていることを自分が自信を持ったり
自慢してはいけないってこと

具体例でいけば
歌が下手と言われて悔しくて毎日3時間歌ってうまくなった
足が遅いと言われて悔しくて毎日10km走った

一見して自分が努力したことのように見えるけど
実際には
「歌を歌うことの楽しさ」を父親が教えてくれたから
「運動することの楽しさ」を兄が教えてくれたから
それができたのであってそうしたところに気が付けずに
当たり前のように努力したと言ってる時点でダメなんですよね

つまり【努力】して身に着けたことも含めて
「よいこと」「才能」はすべて人のおかげとして感謝して生きる
ダメなところはすべて自分が怠けているだけとして受け止める

それを「卑屈」になるのではなく
こころの底から感謝して生きられるところまでいけば
【努力は才能】ってことになるのかなと

そんなことを感じております

でも・・・いまの自分はまだ
「がんばった自分を否定」された気がしてしまうのが
まだまだ心が狭いんだよなーと想ったりなんかして(笑)


自分の過去と向き合っているところで
「努力は才能」ってキーワードに反応した自分がいたので
まとめてみました

自分の恥ずかしいところをさらしておりますが
そんな感じです(^^;)


自分が育てた芽だとしても
そのために必要な「水」や「肥料」は
別の人が用意してくれたもの
そもそも「種」もどこかにあったものだとしたら・・・

そういうところまで配慮できる人間になりたいものです



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Posted by くみちょう at 12:56│Comments(0)まじめ
 
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