2009年05月25日

人を信じる基準って?

目の前にある人を信じられないのに、
なぜに「インターネット」で言われていることを
鵜呑みにしたりするのでしょうか。

人を信じる基準って?



みなさんは、「何を持って信じていますか?」

お金?名声?学歴?社会的地位?

先日、安中市光陽館にてのセミナーにおいて、
「2人一組になって、片方が目が見えない人の役をやり、
もう一人が案内役となって、部屋を一周する」
というワークをやりました。

目を瞑っている状況、まったく見えない暗闇の中。

「もしつまずいたりしたら・・・」
「もしぶつかったりしたら・・・」


目が見えない状況で、一人で一周するなんて、
それこそ、一歩踏み出すのさえ、怖いと思います。


だけど、このワークを終えて、
「何も見えない状況で、人に手を引いてもらうのは怖いですよね?」
そう尋ねた時に、真正面に座っていただいたおばあさま二人が、
こんな素敵なことをおっしゃってくれました。

おばあさん「私は安心していられました。」

「なぜ?」私は聞きました。すると。

おばあさん「私の信じている人が手を引いてくれているから」

いやー、セミナーする必要、まったくありませんでしたね。
そのおばあさん、ごいっしょにいらっしゃった友人の方を
心から信じていらっしゃったんです。素敵ですねぇ。


「目が見えない人を案内する専門家じゃないから、信用できない」
「社会的な地位が低いから信用できない」
「先生じゃないから信用できない」

そういうことではないんですよね。

だけど、「目の前の人は信用できない」となっている人、多くないですか?
インターネットで、どこかのセミナーで、何かの会で、
目の前にいる人よりもそっちを信じているって人。

そういう人って、人に振り回されて、
情報に振り回されて、結局やりたいこともできずにいること、
多いように感じています。


おばあさんもそうでしたが、
「信じる心って、一言で言えるようなことではない」ですし、
ましてや「すぐすぐに信じられるようになる」というものでもないと思います。

「長い時間をかけてゆっくりと人と付き合っていく中で築かれるもの」
それが人を信じる際に必要になってくるのでしょうか。

「人を信じることができない」
そういう人は、「焦って答えを出そうとしていませんか?」

そして焦って答えを出すためには、目に見えるわかりやすい基準、
「お金・名声・学歴・社会的地位」
そう言ったものを基準にして人を信じようとしてしまいます。

が、本当にそれは信用できる基準なのでしょうか。
そして、それらの基準は本当に正しいのか、検証できますのでしょうか?

ついつい「社会的地位がありそうだから」とか「お金を持っていそうだから」とか、
そんな理由で信用していませんか。

そういったところを信じる前に、もうちょっと目の前の人たちとの関係を
「長い時間をかけて信じられる関係性を築くこと」って、考えてみませんか?

そんなことを感じています。
みなさんはいかがでしょうか?


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Posted by くみちょう at 18:00│Comments(0)まじめ
 
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