2009年09月19日

努力とは何か

いま、こんな話題が注目を浴びています。

◆何故か「根性論」のように言われる「努力」
根性論の悪いところは「何故、それをやるのか」に対して明確な答えを
提示しないまま「兎に角、やれ」と言うところである。
経験上、ある程度の数をこなす事で「それをやる筋肉」のようなものが
出来上がってくるのは事実で、最初は出来なくても数をこなす事で
「出来る」ようになる事は幾らもある。

◆継続するという事は面白い事ではないんですよ、実際
目の前にこなさなければならない仕事があるのに
手が動かせないときなんか「ありがとうございます」と
感謝を捧げながらやるとアドレナリンだかエンドルフィンだかが出て
仕事が進む事もあったりするんだけど、
醒めた目で見るとなんの事はない根性論だったり
努力と言われる事をやっているに過ぎない。

◆努力する=一等賞を取る事なのだろうか
大切なのは椅子取りゲームに参加する事で、椅子取りゲームの最後の椅子に座る事ではない。
こうした言説の難しさは椅子取りゲームで負けた人を見て
「椅子取りゲームで最後まで残る努力をしなかったんだろう」とか
「最初からゲームに参加する気ないんじゃね」みたいに言ってしまう、
あるいはそう聞こえてしまう点にあるように思う。


努力とは何か

努力とは何か




そうなんですよね。
「根性論」と混じっているところ。
「努力」と言ったときに「いいからやれ」という言葉とももに、
繰り返させられたり、上記「椅子取りゲーム」における、
「おまえは努力しなかったから結果が伴わないのだ」という、
成果主義に基づいた評価をされてしまう点に問題があるのではないかと。


そんないろんな議論はあるわけですが、
私の中における「努力」の定義としては、
「自分が納得できるかどうか」だと思っています。

努力は、どうしたって人からの評価はできない。
あくまで、「いまの自分ができうることをどれだけやったのか」
であるから。となるとそれを評価できるのは自分自身でしかない。

私としては、「無駄な努力はない」と思っています。
それは、「努力したものに関しては、成果がどうあれ、
【それに向けてがんばってきた自分に納得できるかどうか】ですから、
【無駄な努力】であったとしたら、それはすでに【努力ではない】ことになる」から。


そのあたり、どうしても外部基準を基にしてしまうと、
どうしたって、「成果主義」でしか評価のしようがない。
だから、「努力」というものが、単なる「根性論」として、
意味のないものとしてとらえられたり、
むしろマイナス要因になってしまうのではないでしょうか。


「努力」というものは、自分の中で評価するしかないもの。

・・・とは言ったものの、人は自分の努力を人に見てもらうことで、
認証してもらうことではじめて動ける部分があるのもまた、事実。

そのあたりが、努力ということの根底にある難しさのように感じています。

自分しか評価できないものを、他人に評価してもらおうとしてしまう矛盾。
成果に変わる外部評価をつくりあげることができるのであれば、
また違うのでしょうけどね。

みなさんは、努力といってどんなことを感じますか?


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Posted by くみちょう at 20:00│Comments(0)まじめ
 
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