2009年10月14日

「誰か」に認めてもらうこと

誰かが言った。

「人は、人に認めてもらうために生きているんだ」と。

・・・

「自分に生きる価値はない」

そう感じているという人に話を聞いてみると、
「一人や二人に価値を認められただけでは不安」とも言っていた。

どうしたら自分に価値があると判断できるのだろうか。
どうしたら「生きている意味」を見出せるのであろうか。


「誰」に認めてもらえたら、「生きている価値がある」と言えるのだろうか。

私は、「自分自身」ではないのか、と考えています。

「誰か」に認めてもらうこと



鏡に映して自分を見る。

そこに映る人間を認めることができるかどうか。

そこにいきつくような気がしています。

「誰か」と称しているものの、
それは「自分が認めた人間」であるわけで、
つまりは「自分自身が認めるかどうか」という、
主観的な問題になるのではないでしょうか。

なぜならば、結局のところ、
人を客観的に判断することなんてできないのだから。

客観的に価値があるかどうか、なんてことは判断できない。
誰かが「あなたはすごい」と言っても、
それがどうすごいのかはまったくもって不明である。

となると、「その相手に、自分がどう価値を置いているのか」
ということから、相手を自分の鏡のように反射させて考えているだけなのではないでしょうか。

何よりも、「自分に認めてもらえる自分」になること。

それって、難しいことじゃないような気がしています。

自らがハードルを高くしていることで、
生きづらい世の中にしていってしまっているのではないでしょうか。

みなさんは、どんなことを感じていますか。



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Posted by くみちょう at 21:00│Comments(0)まじめ
 
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