2011年10月31日
<勝負に勝つと、永遠と勝ち続けないといけなくなる>
<勝負に勝つと、永遠と勝ち続けないといけなくなる>
何かが違うんだよな・・・
と思ってきたわけですが、
どうも先日の「善」「悪」の話からも、
反応して連絡がきたのをもって、
さらに自分の中での整理が進みました。
前の記事である、「ディベートに勝つ方法」もそうなのですが、
世の中において、評価を得るためには、
「勝つ」ということを前提にしている集団がいるなと。
というか、そう考えている人たちがいる。
で、私自身、かつてそこに身を置いていて、
いまもともすると「勝とう」としてしまう、
その意識があると、だまし、だまされの世界に落ちる。
人の裏を読み、神経を逆なでするようなことをやり、
感情的にさせたところで、正論を唱えて相手を論破する。
「ディベート」のような討論では、それが手段として適当ではある
のだろうけども、世の中でそれをやると・・・・
勝負には勝てるけども、大切なものを失っていく。
そもそも、勝負している時点で、
自分が勝つ=相手は負けるわけで。
その繰り返しで、どんどんとうらみつらみがたまる。
だからこそ、余計に勝ち続けないと自分が成立しなくなる。
気が付くと、後にひけない状況になっている。
というのが、そうした世界の中で生きていくこと
なのではないだろうか、と。
自分自身、そういった生き方はやめようと思い、
脱却してきたつもりでしたが、
どこかに未練があることを看過されているからこそ、
いまだに誘いの連絡や、こっちにもどってこい、という意図の
「釣り」のメッセージが届くのだろうなと。
そのあたり、はっきりと整理した上で、
次へと進んでいきたいと。そう思っています。
勝負に勝つってのは、その場はいいけど、いつか身を滅ぼす。
スポーツのように、その場限りの楽しみなら、
それもまたいいけど、ね。
人のしあわせは、勝負に勝つことにはない。
自分なりの生き方を見つけることにあるのだから。。。
ちなみに、私のようなことを言うと、
彼ら曰く「負け組の言い訳」だとなじられます。
それが悔しくて反論すると、愚の骨頂。
負け、というのは彼らの土俵に乗るということ。
そうではなく、自分の土俵に乗る。
それが、生きる意味だと、そう思います。
自分の生き方を、人に求めないためにも、
これは気をつけなくちゃいけないことだなと、そう思います。
何かが違うんだよな・・・
と思ってきたわけですが、
どうも先日の「善」「悪」の話からも、
反応して連絡がきたのをもって、
さらに自分の中での整理が進みました。
前の記事である、「ディベートに勝つ方法」もそうなのですが、
世の中において、評価を得るためには、
「勝つ」ということを前提にしている集団がいるなと。
というか、そう考えている人たちがいる。
で、私自身、かつてそこに身を置いていて、
いまもともすると「勝とう」としてしまう、
その意識があると、だまし、だまされの世界に落ちる。
人の裏を読み、神経を逆なでするようなことをやり、
感情的にさせたところで、正論を唱えて相手を論破する。
「ディベート」のような討論では、それが手段として適当ではある
のだろうけども、世の中でそれをやると・・・・
勝負には勝てるけども、大切なものを失っていく。
そもそも、勝負している時点で、
自分が勝つ=相手は負けるわけで。
その繰り返しで、どんどんとうらみつらみがたまる。
だからこそ、余計に勝ち続けないと自分が成立しなくなる。
気が付くと、後にひけない状況になっている。
というのが、そうした世界の中で生きていくこと
なのではないだろうか、と。
自分自身、そういった生き方はやめようと思い、
脱却してきたつもりでしたが、
どこかに未練があることを看過されているからこそ、
いまだに誘いの連絡や、こっちにもどってこい、という意図の
「釣り」のメッセージが届くのだろうなと。
そのあたり、はっきりと整理した上で、
次へと進んでいきたいと。そう思っています。
勝負に勝つってのは、その場はいいけど、いつか身を滅ぼす。
スポーツのように、その場限りの楽しみなら、
それもまたいいけど、ね。
人のしあわせは、勝負に勝つことにはない。
自分なりの生き方を見つけることにあるのだから。。。
ちなみに、私のようなことを言うと、
彼ら曰く「負け組の言い訳」だとなじられます。
それが悔しくて反論すると、愚の骨頂。
負け、というのは彼らの土俵に乗るということ。
そうではなく、自分の土俵に乗る。
それが、生きる意味だと、そう思います。
自分の生き方を、人に求めないためにも、
これは気をつけなくちゃいけないことだなと、そう思います。
Posted by くみちょう at 22:00│Comments(0)
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