2011年10月17日

すばらしい人間って、別に教員に限らないんだ

「私が教員をあきらめた理由」

「人間としてはすばらしいが教員としては失格だ」

「私が教員の世界を目指した理由」


こんな形で続けてきましたが、
ただ、絶望した、マイナス効果で教員にならなかった
ということではなく、他に魅力を感じた、ということについて
自分のことをまとめてみたいと思います。


「私が尊敬する経営の考え方」

大学での授業、
「意見は大切だから、いろんな意見を出すように」
そう初めに話をしておいて、いざ意見をだしたら
「お前らはしょせん学生だ。私はこの講義の専門家だ。
お前たちのにわか意見で、私たちの理論に叶うわけがない。
反対の意見を言うのはおかしい。」

そんなことを言っていた某教授。

「子どもたちのこころを大切にするんだ。
一人ひとりが描いた絵から感じ取るんだ。」

と言いながら、学生が描いた絵を
「こんなもの描くやつはバカだ。
絵心ひとつないのか!?」

と人前でけなす某教授。

こうした経験から、「???」というのが続きました。
教員を育てる大学が、こういう姿勢でいいのだろうか。
いったい、教員って、教育ってなんなのだろうか・・・


そうした疑問がふつふつとわき上がっていました。
それでも、自分のいまの知識や経験を少しでも増やして、
いろんな目線でとらえなおしてみよう。
そう考え、採れる授業はすべてとり、常に一番前の席に座り、
ノートも、板書、先生の言葉、自分の意見用と分けて、
それぞれびっちりとりながら、講義を聴くようになりました。

この時の経験が、本当に自分にとってよかったなあと思うわけですが、
まあそれは今回の本題からはちょっと離れるので、おいておきます。

そんな中、教養の授業として受けた経営の授業が
私の中で感銘を受けたモノとなりました。

大学の教養の授業。
学部全体、他の学部も集めて、総勢180人くらいの
大ホールでの授業。
当然、がやがやわいわいとしている中での講義です。

「静かにしましょう」「静かにしろ」
そんな言葉が出るだろうなと思っていましたが、
その講義は違っていました。

「私の講義は、経営学です。
授業の内容は、○○という教科書を使います。
大学の講義は、目的が明確なので、その学習目的を達成していれば
成績はつきます。この授業は、この教科書の○○ページから○○ページまでです。
なので、講義がつまらないと思う人は、出なくてもだいじょうぶです。
試験は、いまいった通りのところからでますので。
試験の点さえとれていれば問題はありません。試験だけ受けに来てください。

ただ、私は、この講義をみなさんが聴いてくれるかどうか。
私がみなさんにとって【おもしろい】と思うモノを提供できるかどうか」
それで、私に対する評価が決まると思っています。
静かにしなさいとか、そういうことは言いません。
静かに聴きたくなるような授業にすればいい。


みなさんが出るか出ないかは、自由です。
ただ、この場に来てお話するのは、
聴いているみなさんのじゃまをすることになるので、
それだったら、講義には出席しないでください。」

こうして始まった授業はものすごく面白く、
結局その大人数のほとんどが残って、静かに講義を聴いていました。

私は、その講義に感銘を受けました。
「お前ら静かにしろ!!」
「いいから授業を受けろ!!!」
そうした命令口調な教授ばかりだと思っていたところで、
こういう人がいるんだということ。

その教授に感銘を受けた私は、
早速、話を聴きに行きました。
「授業のはじめの話しなんですが、
どうしてそんなふうにお話ができるんですか?」と。

すると、こんな答えが返ってきました。
「経営ってのは、【自分がいいことしているから】とか
【自分が優れた能力があるから】とふんぞり返っていたら
成り立たない。相手にいかによろこんでもらえるのか。

そうしたことを常に考えて行動するからこそ、経営は成立する。」

私は、教育学部に入って、教員の勉強をしようと思いましたが、
経営の教授から、教育学部以上の教育を受けたなと、その時感じました。

「上から目線で押しつける」
そんな視点でばかり生きている人が多く、
それがあたりまえになっているような教育の世界。

それよりも、こうして経営の世界の話の方が、
よっぽど「人間としてすばらしい」じゃないか、と。

その後、その教授の授業をすべて受けるようになりました。
それが、私が教員を目指すのを辞めた、プラスの理由です。

これまで、自分が尊敬していた人たちが、
たまたま教員であったということで、
教育と言う世界に対して想いを持って生きてきた。
だけど、私は「すばらしい人間」を求めているのであって、
「すばらしい教員」を求めているのではない
のではないか、と。

もちろん、これは教育実習を受けるまでは、
そうは言いながらも教員を目指し続けてきていたわけですが、
こうした状況があった中で、教育実習でのできごとを受けて、
私自身、考え方が変わったのでした。


こうして、考え方が変わった私は、
「先生になるため」とかは関係なく、
「なんでも、自分の糧になる。思わぬところから、
おもしろい考え方が身につく。
自分に関係ないと思うものでも、できる限り学んでみよう」

そういう姿勢になりました。
社会科の私にとっては、単位にはなるけども、
資格や履歴的には何の役にも立たないにも関わらず、

国語の古文の授業を受け、
理科の物理の授業を受け、
他学部である社会情報学部の授業を受け、
空いている時間はすべて授業を受けるようになりました。

そういう目線で見ると、嫌だった教授のいいところも見えてきて、
世の中のすべてが学びにつながるなと、
そう楽しく受け入れることができるようになりました。

「すばらしい教員になる」という考えでは見えなかったものが、
「すばらしい人間になる」と考えた瞬間に世界が変わった
のです。

自分が憧れて、こうなりたいと思っていた人間像って、
「すばらしい教員」ではなく、「すばらしい人間」だったんだなと、
改めて、そう感じて、考えるようになりました。

それが、私が教員を目指すのを辞めた理由の、もうひとつになります。

教育という、それまで目指してきたものがなくなり、
絶望を感じていた中での、あたらしく見つけた希望でした。

すばらしい人間って、別に教員に限らないんだ



ちなみに、確認をしておきますが、
教員全部がおかしい、とか教育界全部に絶望、
というわけではありません。
お世話になった教育学部の先生もいらっしゃいます。
すばらしい考え方をされた、立派な方もいらっしゃいます。

そして経営者すべてがすばらしいとか、そういうわけではありません。
なんだ、それ、と思うような経営者の方もいらっしゃいます。

どんな職種だろうが、どんな場所だろうが、
素晴らしい人はいるし、「あれっ」と思う人もいる。

ただ、その中で、自分はどこの世界に入るのか、
いったいどんな生き方をするのか、ということを、
考えるきっかけとなったのが、上記の事例でした。


この頃から、「自分にできることって、なんだろうか」
「自分が生きている意味って、どこにあるのだろうか」
そういったことを考え始めるようになったのですが、
それもまた、これから先に続いていきます。



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Posted by くみちょう at 20:00│Comments(0)まじめ
 
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