2009年03月16日

子供の命と宗教

即日審判で父母の親権停止 家裁、息子への治療拒否で

 東日本で2008年夏、消化管内の大量出血で重体となった1歳男児への輸血を拒んだ両親について、
親権を一時的に停止するよう求めた児童相談所(児相)の保全処分請求を家庭裁判所が
わずか半日で認め、男児が救命されていた
ことが14日、分かった。

 子供の治療には通常、親の同意が必要で、主治医は緊急輸血が必要だと両親を再三説得したが
「宗教上の理由」として拒否された。病院から通報を受けた児相は、
児童虐待の一種である「医療ネグレクト」と判断した。

 医療ネグレクトに対しては過去に1週間程度で親権停止が認められた例があるが、
即日審判は異例のスピード。児相と病院、家裁が連携して法的手続きを進め、
一刻を争う治療につなげたケースとして注目される。

 関係者によると、当時1歳だった男児は吐き気などを訴えてショック状態となり、
何らかの原因による消化管からの大量出血と診断された。

 病院は「生命の危険がある」と児相に通告。
児相はすぐに必要書類をそろえて翌日昼、両親の親権喪失宣告を申し立てるとともに、
それまでの緊急措置として親権者の職務執行停止(親権停止)の保全処分を求めた。

 こうした輸血拒否への対応については日本小児科学会など関連学会が08年2月、
合同で指針をまとめており、今回のケースでも病院側はこの指針に従って対応した。

子供の命と宗教



「【家裁GJ】息子への輸血を「宗教上の理由」から拒んだ両親に対し、即日審判で親権を停止」
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51443011.html


さて、この子にとってしあわせってどうなんでしょうか。
私個人で言わせてもらうと、「命が助かってよかった」と思っています。

人をしあわせにするために宗教があるとしたら、
この世に生きていることよりも死ぬことのほうがしあわせということがありうるのであろうか
この世で生きていく中で、どのようなしあわせを求めるのかが宗教なのではないだろうか。
あの世にいったら、この世の宗教観など、関係ないのではないだろうか。。。
個人的には、そんな憤りにも似た気持ちを持ちました。

だけども、これについては、絶対の答えなんてない。
その子自身が成長して、後にこのことを判断するしかないでしょう。

こうして生きながらえた子供に対して、ご両親が「穢れた」として虐待をするようになったら、
はたしてこの子はしあわせなのだろうか・・・そんなことを考えたりもします。

しあわせの定義は人それぞれ
個人が決めるのであって、たとえ両親であろうとも、
子供に対して強制することはできない
と、そう感じています。

この両親にとってのしあわせ、それは「特定の宗教に従うこと」でしょう。
それでしあわせなのだから。その両親の生死も含めて、こちらが口だしをすることでもない。
しかし、この子はそんなことを判断できる状態にはない。
そこの部分にまで生死を両親が持っているとなると・・・

ここでもし、この子供の命を救わなかったとする。
両親は満足するかもしれない。
だけど、そこに携わる多くの人に後悔が残る。それも取り戻せない形で。
それは、多くの人を不幸にした上での両親のわがままでしかなかったりするのではないだろうか。

自分のしあわせを追求する分にはかまわない。
だけど、それは他の人のしあわせを犠牲にしてつくられるものではない


そんなことを感じた記事でした。

一見、ありえないことのように見えるけれども、
自分自身、命をかけて行動した場合に、まわりはどうとるのだろうか・・・と。
そしてそこに追従する人たち、その影響を受ける人たちはどうなるのか・・・

みなさんは、この記事からどのようなことを感じましたか?


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Posted by くみちょう at 18:00│Comments(6)まじめ
この記事へのコメント
難しいですね。


この子の命が助かったのは一方では正しかったでしょう。

もし、治療が出来ずに亡くなってもそれもその時になったら正しいかもしれません。

宗教とは何でしょうね。

幸せになったり、戦争のきっかけになってみたり。
どれも、全て人間が作りあげたもの、ですけどね。
Posted by とこぶし at 2009年03月16日 20:03
生命に優先するものなどは何もない。ましてや宗教が・・・・
生まれおちたその瞬間の命は母親のものでもなく、父親のものでもない。
一人の人間の人格として最大限に尊重されなければならない。ましてや親ならなおさらのことです。
目の前で死んでゆくわが子に、お祈りしながら神様のもとへなどというおままごとは絶対に許されません。
Posted by 昭和24歳昭和24歳 at 2009年03月17日 10:31
命は、もちろん大切だという大前提の元に。

生きてさえいれば、幸せか、という問題でもありますね。
Posted by とこぶしとこぶし at 2009年03月17日 12:35
「生きていてもそこに何の意味も感じられない」という人たちが増えている昨今、
これは私たちは次を考える立場になった、ということを示していると思います。

それは、とにかく「生きることが目的であった時代」から、「生きることは満たされた時代」になったということ。

そう、ただ生きるのではなく、
「何のために生きるのか」が必要な時代がいまなのだ。

それは、昭和24歳さんをはじめ、その前の世代も含めて「生きる」ということを満たしてきてくれたから。

そのことを「当たり前」ではなく「勝ち取ったもの」としてとらえた上で、生きていく意味を模索しなくてはいけないのだ。
それが、いまを生きる私たちの持つ大きな課題であると、私は感じています。
Posted by くみちょう at 2009年03月17日 14:06
>とこぶしさん
「どれもすべて人間のつくったもの」
そうなんですよね。
人間が自分たちの都合に合わせてつくったものなのに、
それがまた人を苦しめたりしあわせにしたり・・・
「人は本当にしあわせになりたいのか?」
ということも、ひとつのテーマとして考えられるのではないかと思っています。

正しい、正しくない、は歴史の動き次第でなんとでもかわるもの。
変わらないのは、事実。それだけなんですよね。
Posted by くみちょうくみちょう at 2009年03月18日 08:05
>昭和24歳さん
親になるってのは、どういうことなんでしょうか。
上記の記事においては、「親権剥奪」がされております。
「親である」という権利が保障されている、ということなんでしょうが、
となると同時に「責任」も発生しているわけですよね。
「親」の権利と責任って、なんでしょうか。
そして「子供」はいつをもって「大人」になるのでしょうか。

江戸時代までならば、「数え15歳立志」を持って成人としていた。
いまの時代は?人間は個人としての判断がきちんとできるようになることは
はたしてあるのだろうか・・・
Posted by くみちょうくみちょう at 2009年03月18日 08:09
 
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    コメント(6)